タイトルのようにあるのは、まずこれ☟を例に挙げるとわかりやすいと思う。
これを見る限り、
『いじめをする側』は、『いじめをする人間』の気持ちが理解できるんだね。
逆に『いじめられる側』は、『いじめを受けている人間』の気持ちが理解できる。
「いじめる側」と「いじめられる側」の思考はそもそも違う
いじめられる人間は、『いじめ』がどんなに悪質なのかを知っています。
だから、いじめは絶対的に「悪」だと実感している。
しかし、いじめをする人間は、それが悪いことだと分かっていながら「いじめ」をすることが非常に多い。
つまりは、「いじめ」を正しいものだと思い込んでいる。
いじめをしている自分が正しいと思っているからこそ、いじめを続ける。
いじめる側の人間はそれに同調しているから、束になっていじめをする。
束になるほどに、自分のしていることの正しさが共感された気になるから、さらに調子づいていくんです。
いじめが無くならない理由がここにあると思います。
いじめをする人間は、いじめをすること事態楽しんでます。
相手が嫌がったり、やめてほしいと懇願や苦しんでいればいるほど、なおさら面白がって、いじめをやり続ける。
「いじめ」というのが、一種の「娯楽」。
第三者がいくら「いじめをやめろ」と言ったところで、やめない。やめるわけない。
そういう悪いことを楽しむ奴らなのだから、「いじめをやめろ」と言っても全く響かない。
もう、いじめられる側は『いじめられないようにする』か、『いじめられた場合の対処』を適切にやるしかない。
「いじめをする人間」に『いじめの苦しさ』を分からせる復讐の手もいいと思います。
じゃないと奴らは、『自分こそが正しい』と勘違いしたまま生きていくから、迷惑でしかない。